相手の居ぬ間に・・・【後編】

そこからのことは、またもや覚えていない。ただ朝起きると、案の定ホテルにおり、隣には素顔の占い師が眠っていた。切れ長の目がりりしい男顔の美人だった。それから何度か、私は占い師と浮気の関係を楽しんだ。向こうも浮気をしているのだから、と思うと、妻への罪悪感もなく、むしろ妻の嫌がらせへの復讐ができているようで、快感を感じていた。
ある日、占い師の女が私に提案した。
「今日は奥様が夜遅い日でしょう?」
そのころになると、妻の浮気のパターンがわかるようになっていた。パターンを作るなんてバカなことをして、私に見破って欲しいのだろうか。
「そうだけど、それが?」
「じゃあ私、あなたの家に行きたいな」
本来これは断る提案だ。だが、妻の大胆な行動に対してやり返したいという思いがあり、私もまた大胆になっていた。私は彼女を連れて自宅に戻った。
家で肌を重ねていると、車の排気音が聞こえた。私は焦った。こんな早くに妻が戻るなんて。私は、慌てふためきつつ、彼女に
「二階に隠れてくれ! 妻は絶対に上までは来ない、無精者だからな。そのうち隙を見て逃げるんだ」
と言った。彼女は全裸のまま急いで二階へ逃げていった。乱暴に脱ぎ捨てた服をかき集めて彼女に渡す時間はなかったので、とっさに庭の軒下に入れた。
入れ替わりに妻が入ってきた。浮気しに行く時の服装だった。妻は少しも驚いていない様子で言った。
「あら、早かったのね」
私も刺々しく言葉を返す。
「おまえこそ、ずいぶんお洒落してるんだな」
それには答えず、妻は私に言い放った。
「あなた最近、残業だなんて嘘ついて、遊び回ってるんじゃないの」
あまりの言いぐさに私は唖然とした。まさか妻に喝破されているとは思わなかったが、それ以上に、自分のことを棚に上げてずけずけ指摘してくる根性に腹が立った。
「何だと! それはおまえの事だ! おまえ浮気してるんじゃないか!」
「やっぱり私の後をつけていたのね。浮気じゃないわよ、あれは。探偵と会って調査報告を聞いてたの。あなたの浮気を探るために」
「なんだと?」
妻は無言で写真を差し出してきた。占い師の女と楽しそうに歩く私が写っていた。
「まて、おまえが初めての浮気をしたとき、俺はまだ―――」
言いかけて、口を噤んだ。認めたようなものだった、自分の浮気を。
「調査が空振り続きだったから、そろそろやめようと思ってた所だったの。ところが、最後の調査で浮気の証拠をおさえることができた」
ふいに、窓を叩く音がした。ジュンヤが、女物の下着をくわえて、窓に頭を叩きつけていた。
「あれも証拠ね。まさか家の中に招くなんて不用心だわ」
私はもう言い逃れできず、その場にへたりこんだ。
「これであなたと離婚できるわ。さんざん嫌がらせしたのに出ていってくれないんだもん。早く出ていけば、慰謝料まで取られる事は無かったのにね」
妻は厭らしく笑った。

それからの顛末だが、私と妻は離婚した。慰謝料をたっぷりと取られた。妻の浮気は私の思いこみだったというのだ。占い師の女はいつのまにか逃げていて、連絡も取れず、私は責任を一人で背負い込む事になった。世の中は理不尽だ。ただ、やはり浮気などするものではない。
ある日不思議な夢を見た。
辻占いをしている女のもとに、妻だった女がやってくる。元妻は男連れだ。あの日、車を運転して元妻を迎えにきたあの探偵だ。
「あなたが芝居してくれたお陰で、あの男を騙すことができたわ。感謝してる」
占い師の女は微笑した。
「いいのよ。すぐに浮気しちゃうような男、許せないもの。新しい恋人とお幸せにね」
すると元妻はくすくすと声を立てずに肩で笑った。
「新しいというか、ヨリが戻ったのよ。いこ、ジュンヤ」
元妻はうれしそうに、探偵―――いや、探偵役の男・ジュンヤの手を取って、夜の町へ消えていった。
もしこれが正夢だとするなら、世の中は本当に理不尽だ。

相手の居ぬ間に・・・【前編】

彼女と出会ったのは、妻との仲が冷えきり始めた頃の事だった。妻とは結婚して3年になるが、子供ができないことと私の仕事に残業が多いことが、不仲の原因だろうと思う。子供の成長のためにと借りた一戸建ては空虚な空間だった。
妻を顧みない私への当てつけだろうか、彼女は犬を飼い始めた。ジュンヤという、およそ犬に似つかわしくない名前だった。それを不思議に思った私が妻に名前の理由を問いかけると、妻はぬけぬけと言い放った。
「元彼の名前だけど?」
これが私への嫌がらせでなくて、なんであろうか。妻の性格の悪さはこの日を境に露見し始めた。夕食もろくに用意せず、かといって働きもせず日がな一日CS放送を見ている。家は最低限の掃除しか為されないために荒れ果て、私の私物はたまにヤフーオークションで売りに出されているようだった。オークションで稼いだ金で寿司や高級イタリア料理を食べに行ったりもしたようで、丁寧に明細を見せつけてきたことまであった。
精神を病んでしまったのだろうか、と思ったが、近所付き合いには何の支障もなく、むしろとても社交的で人当たりも良かった。
いよいよ、自分だけが嫌がらせをされていると思え、腹が立ってくる。

その日、残業を終えた私は、傍若無人で役に立たない妻がひっくりかえって寝ている様を想像してしまい、ふいに帰宅するのが嫌になった。このまま酒を飲んで、それからカプセルホテルにでも泊まろうと思った。家に帰って気詰まりな思いをするより、金は無くなるが快適に一人の時間を過ごす方がましだ。もう妻の足音すら聞きたくなかった。
繁華街の適当な居酒屋を何軒か梯子しているうち、終電が無くなった。酔いの加減も程良く、暗い街を我が物顔で歩くのはなかなか悪くない気分であった。
カプセルホテルへの道すがらに、占い師が座っていた。黒いベールを被って、四角い箱のような台の上には水晶玉が置いてある。世間のイメージ通りの占い師だ。あまりにも典型的すぎて胡散臭かったが、酔っぱらっていたこともあり、私は占ってみるつもりでフラフラと近づいていった。
「今晩は。占いのご用でしょうか」
若い女性の声だったので、私は少し驚いた。若い女性が、こんな夜中に一人、人気のない路地にいるなんて不用心ではないだろうか。
とはいえ、そんな指摘も野暮だろう。好奇心も手伝って、私は女に占いをしてもらうことにした。
女は私と水晶玉を交互に見比べていたが、しばらくすると重苦しいため息をついた。
「言いにくい事ですが、最近、奥様との不仲で悩んでおられませんか?」
悩みを言い当てられ、私は面食らった。驚きのあまり言葉を発せずにいると、占い師の女は続けてこうも言った。
「お気の毒ですが、奥様は浮気しておられます。それが原因で、あなたから心を離しておられるのです」
「な、なんだって?」
ようやく言葉を発することができたが、私の様子はさぞかし間抜けだっただろう。
「明日、残業があると奥様に嘘を教えなさい。奥様は大喜びで外出するでしょう。あとをつけてごらんなさい」
私は放心状態のまま占い師のもとを放れた。その後、どこをどう巡ったかわからない。公園かどこかで眠った後、家に戻ったのだろう。目を覚ますと、スーツ姿のまま家のベッドに倒れ込んでいた。

「今日、残業で遅くなるから」
出来合いの総菜で朝食を済ませながら、まだ寝室から出てこない妻に声をかけた。むろん残業は嘘だ。
占い師を信じるのは馬鹿げてるかもしれないが、あの怪しい雰囲気をどうしても信じてしまいたいのだ。
それに、浮気していてくれれば私としても離婚しやすい。などと悪い策略を巡らしていた。

仕事を早く切り上げ、家の前の喫茶店でじっと自宅を観察すると、着飾った妻が出てきた。ほどなくして、見たことのない車が乗り付け、妻を拾ってどこかへ去っていった。
浮気されている、という事実によって、私はほっとしたような、反面許せないような不思議な気分に襲われた。何故だかはわからないが、私はあの占い師のもとへ向かっていた。
占い師は私の顔を覚えていたようで、
「そのご様子だと、私の占いは当たっていたようですね。お気の毒様です」
「あんたの占い、本当に当たるんだな」
「当たらなければ占いではありませんよ」
「もっともな話だ。俺はこれから、どうすればいいのか、占ってくれないか」
「どうすれば、とは? ぼんやりしすぎて、占いようがありませんわ」
「妻に復讐するか、それともさっさと離婚して新しい恋をするかだ」
「奥様との離婚は、今のままでは成立しませんわ。奥様は、あなたに嫌がらせをしながら、浮気相手という特別な間柄の人物と密会するスリルを楽しんでいるのです。そのスリルを手放すようなことはしないでしょう」
「では、どうすれば」
「あなたも浮気をすればいいのですよ」
占い師は微笑した。私はふいに、カプセルホテルと同様に林立しているラブホテルに意識を向けてしまった。こうなればヤケだ。私は占い師の女の手を取った。
「では、浮気相手になってください!」

祭りの準備

私は倉本梓、高校1年生。私には、ずっと片想いをしている男子がいる。入学式の日に一目ぼれして以来、ずっとだ。その男子は加賀くんと言う。背が高くて、キリッとした眉が男らしい。

元来が引っ込み思案の私は、せっかく加賀君と一緒のクラスになれたのに、話しかけたりも出来ずにいた。

そんな私と加賀くんの間柄に転機が訪れたのは、学園祭の時期が近づく九月半ばのことだった。夏休みが過ぎて、野球部の練習で日焼けしたその頃の加賀君は、体も前より引き締まって、本当にカッコよかった。でも私はといえば、相変わらずの引っ込み思案で、夏休みも浮いた話ひとつなく、吹奏楽の部活に打ち込んでいた。ほかの男子に誘われることもなくて、そりゃ私は加賀くん一筋だけど、でも少し悔しかったりもした。

その日のホームルームで、担任の先生がこう言ったのが、私と加賀くんが急接近する切欠だった。

「じゃあ、学園祭の準備委員を決めるぞ。男女それぞれ一名。今決まらなくても、放課後までに考えてくれればいいんだが……」

学園祭の準備委員といえば、学園祭の準備を取り仕切る大仕事だ。力仕事もしなきゃいけない。私は、飾りつけをすることが大好きだったから、この準備委員の仕事に興味があった。けど、やっぱり大役すぎる気もして、立候補するのがちょっと怖かった。

「あれ、梓、学祭準備で色んな装飾するんだって張り切ってなかった?」

後ろの席のリエちゃんが、私に余計なことを言ってきた。日頃の無駄話で確かにそんな事を言ったけど、それを覚えているなんて。ちょっと迷惑だ。ほかの友達も、口々に、

「そういえば、飾りつけ好きだったよね」

「そうそう。梓が適任じゃん?」

なんて勝手なことを言ってきた。引っ込みがつかなくなった私は、おずおず手を挙げた。

リエめ、私が引っ込み思案だから言い出せないと思って、後押しをしてくれたのだとしても、やっぱ余計なお世話にしか思えない……。

なんて思いながら、私はうんざりして、窓の外を見ていた。すると、おおっ、とざわめきが起こった。

「梓梓、ヤバイ、大変」

リエちゃんが私の背中を小突いた。私は、何だろうと思って、視線を教室内に戻した。そして驚きに目を丸くした。

そう、加賀くんが手を挙げていたのだ。

「すんなり決まったな」

担任の先生が嬉しそうに去っていって、教室は何事も無かったかのように、いつもの、お喋りばかりの空間に戻った。でも私は放心状態だった。

準備委員は、放課後の時間を使って作業する。それだけ長い時間一緒に過ごすということだ。

「加賀君と……一緒にいられる……」

それどころか、二人きりになるチャンスだってある。

これは、大チャンス!

一気に大接近することができる。

「加賀のやつ、珍しいね。こんな係、やるようなキャラじゃないのに」

不思議そうに話しかけてきたリエちゃんの手をとって、私は何度もその手を揺さぶった。今頃になって興奮の波が押し寄せてきたのだ。

「リエ! ありがと! ほんとーに、ありがと!」

何がなんだかわからないリエちゃんは、ますます不思議そうにするばかりだった。

初めての委員会は、それから一週間後の事だった。その日が来るのが、待ち遠しくて、何日か前からドキドキして寝つきが悪くなったくらいだ。

委員会に出席するときは、同じクラスの人は隣同士座る。こんなにも、加賀君の近くに座ることなんて、今までなかった。これだけで幸せだ。

「……倉本さん。俺の顔に何かついてる?」

出し抜けに加賀くんが声をかけてきて、私はビックリした。顔が真っ赤になった。

「えっ! な、そんなことないよ!」

「そっか。いや、倉本さんさ、さっきから俺の顔をずっと見てるから、つい」

まじまじ見ていたのを気づかれていた!変な奴だと思われただろうか。私はいよいよ耳まで真っ赤になって、顔から炎を吹きそうだった。

「ご、ご、ごめんなさい! あのえっと、加賀くん休みの間に、日焼けしたよねっ!」

私は慌てて、なにがなんだかよくわからないことを口走った。すると、加賀くんは、プッと吹き出した。

「まさか、日焼けが気になって、俺の顔を眺めてたわけじゃないよね?」

「ち、ちがうけど……」

「じゃあ何で?」

かっこいいから、何て言えるわけがない。私は仕方なく、勘違いをそのまま理由にして誤魔化すことにした。

「ごめんね、やっぱ、日焼けが気になったの」

「あははは!倉本さん、面白いね!話せてよかったわ。これからよろしくな」

加賀くんが快活に笑ってくれたから、私はだいぶ幸せな気分になった。

それからの何ヶ月か、本当に幸せだった。私が重い荷物を運んでいると、加賀君は何も言わずに全部引き受けてくれた。逆に、加賀くんが苦手な経費の計算や細かい手仕事をやってあげた。

「やっぱ女子は器用だな」

看板の色塗りをする私の隣に、加賀くんが座って笑いかけた。その歯があまりに真っ白でくらくらしそうになった。

「そんなことないよ。私ヘタな方だよ」

「倉本の、そうゆう謙虚なとこ、好きだぜ」

加賀君はそれだけ言うと、ぷいっと顔を背けて、別の人の手伝いに行ってしまった。

私は、すっかり色塗りの手を止めてしまった。

「今好きって言った……?」

不意打ちの、嬉しい言葉。

もう、この日の私は、使い物にならなかった。

そしてついに、学園祭の前日がやってきた。準備委員は全体の監督が役目だ。クラスメイトがざわざわと騒ぎながら準備をしている。

今年、うちのクラスは縁日をやることになっている。装飾のなかには、私がプランを立てて材料を買い、色塗りをしたものもある。加賀君や他のクラスメイトと一緒にホームセンターで買出しをして、本当に楽しかった。

「やば、すごい達成感」

出来上がりつつある教室の装飾を見て、私は思わずつぶやいた。

「ほんと。これ倉本のアイディアがほとんどだもんな」

ふと気づくと、隣で加賀くんが笑っている。この頃になると、もう加賀君はクラスの皆の前でも、私を苗字で呼び捨てにしてくれていた。

「ここはあたしらやっとくし、二人はちょっと休んでていいよ。働きすぎじゃん」

的当て用のパネルを抱えたリエちゃんが、そう言った。私の方をみて、ニヤニヤしている。ひょっとしてリエちゃんは最初から、私が加賀くんの事を好きだってこと知ってたのかな、なんて思った。

「じゃあそうすっか。行こうぜ」

私は加賀くんにうながされて、準備委員が普段使っている用具室に向かった。途中、ほんとうに何気なく、加賀くんが私の手を引いて歩いてくれた。

準備委員は皆が出払っていて、用具室は無人だった。

「倉本、ありがとな。色々手伝ってくれて。お前がいなかったら、うちのクラスの縁日はもっとしょぼかったと思うわ」

「そんなこと。私こそ、加賀君と一緒に準備できてよかった」

でも、この祭りの準備が終わってしまったら。私と加賀くんの接点はもうなくなってしまうのだ。それを思うと気が重くなった。加賀君は私のそんな様子を知ってか知らずか、準備中の思い出を語っている。

告白しなくちゃ、チャンスなんだから。

私は勇気を振り絞った。準備委員に手を挙げた時は、リエちゃんの後押しがあった。でも今度は、自分の意志で一歩を踏み出さなきゃ。もう引っ込み思案じゃだめなんだ。

「加賀くん。私、加賀くんのことが」

「俺さ、倉本が手を挙げたから、慌てて立候補したんだぜ」

「えっ?」

我に返ると、加賀君は、はにかんだ表情で鼻の下をかいている。お互いに、相手の目を上手く見ることができない。

「私、あの、ずっと加賀くんの事が、気になってたの」

「俺もだよ。でもなかなか話しかけるチャンスなくて」

それから加賀君は色々なことを話してくれた。私の控えめな様子が気になっていたことや、女子に話しかけるのが苦手だから、なかなか接近できなかったこと。

「でも実際に話してみたら、すげえ面白いし、それに器用だし、なんかすっげーなーって思ってたら、気になるのが止まんなくなってたんだよな。それにやっぱ、一緒に準備してて、楽しかったし」

夢のような言葉だった。憧れの加賀くんから、そんな風に言って貰えるなんて、思いもしなかった。

「私、準備委員に立候補してよかった。加賀くんと一緒にいられて、私も楽しかったし」

「俺もだよ」

加賀くんが私の手を取った。それから、少し躊躇しながら、やがて真っ直ぐ私の目を見た。

「やっぱ、人の顔まじまじ見るの、照れるわ。倉本はすげーな。俺の顔あんなにじっと見れてて」

「あの時の話はやめて、恥ずかしいから。それに、それは、私が今まで影から加賀君のことを見てたからだよ。ノゾキ……て感じかなあ? でも今は面と向かって、向き合ってるから……恥ずかしいよ」

加賀君が嬉しそうに笑った。

「なんだよ、それ。おまえ、変な奴だな、やっぱ」

「うるさい」

祭りの準備が終わっても、私たちは一緒にいられるだろうか。そうするためには、私が自分から行動を起こさなきゃいけない気がした。待っているだけじゃダメ、自分から好きだと言わなきゃ。

「あのね。加賀くん」

「うん」

しばらくの間、沈黙が流れた。ドキドキが喉を締め付けて、声がなかなか出ない。ようやく搾り出した言葉は、緊張で少し裏返っていた。

「明日さ、学園祭さ、一緒に見て回ろ!」

緊張で背筋を伸ばしていた加賀君は、私の言葉を聞くと、ふっと息を吐いてリラックスした。

「はじめっからそのつもりだよ!」

そうして、私の頬を軽くつねった。

結局、私は、しっかり告白できなかった。遊びに誘うのが精一杯。でも、少しづつの前進でも、いいよね。いつかきっと、しっかり、目を見て伝えようと思ってるから。好きだってことを。

離婚のカギ【最終話】

家に帰ってからも真由美はそのことが忘れられず、その日の夫との会話は殆ど覚えていなかった。

翌日朝早くに夫が仕事に行くと彼女は仕事終わりと思われる久保田に電話をした。

「久しぶり。お前のほうから関係を終わらせようって言ったのにどうした?」

久保田の質問には答えずに、そのまま彼の仕事場の近くのカフェで会うことにした。

久保田と会ってからも特に何を話したいといったことはなかったのだが、昨晩の出来事と財布のプレートが消えたことは何か関係しているのではないかと思わずにはいれず、結果的に久保田に会うことを選んだのだ。

仕事終わりで眠そうな久保田は若干機嫌が悪そうで、すぐにでも帰って家で寝たいという態度を露わにしていた。

結局何も話せないままそのまま久保田と別れたのだったが、家に帰っても釈然としないものがあった。

そのまま夜に夫から求められ、完全にそれどころではなかった真由美は愛情を一方的に受けるだけの情事に嫌気がさし、気がつくと早く終わることだけを願っていた。

会社に向かう人々で賑わう朝の渋谷で、二人のスーツ姿の男が会っていた。

「あれから一度だけ会いましたよ、彼女に呼ばれて」

「それで?」

「ネックレスは付けていませんでした」

「それで?」

「それだけですよ。言われた通り確認だけして、後は適当な頃合いを見て帰りましたから。それより、約束通り今回のことは妻には言わないで下さいよ」

「いいだろう。金もいらない。」

「結局離婚はするんですか?あまり俺が口を挟むことじゃないですけど」

「それを君に話す義理はない。約束通り今回のことは奥さんには言わないでおいてやる。その代わりに二度と私の前には現れないでくれ」

そう言われて久保田は席を立った。

駅の傍の喫煙所で煙草に火を付けながら時刻を確認する。

最後の一本だというのに、恐怖からか煙草の味は全くせず、それどころか上手く吸うことができない。

空になった箱を握りつぶして灰皿の隙間から押し込む。そしてまだ半分も吸っていない煙草を灰皿に押し付けると久保田はその場を離れようとした。

しかし一度だけ引き返し、ポケットから無地のプレートを取り出す。それを灰皿の中に放り投げると彼は足早に渋谷を後にした。

離婚のカギ【第2話】

やがて落ち着いてきた彼女は朝から全く寝ていないこともあり、いつの間にかソファーで寝てしまっていた。起きると時刻は19時過ぎ。

携帯を開くと久保田からメールが届いていた。

「悪い、寝ていた。何か用?」

すぐに電話をしようとも思ったが、また出ないような気がしたので彼女はメールで写真の入っていた封筒のことを伝え、関係を終わらせたいという旨を伝えた。

返信はすぐにきた。久保田のほうは特に驚いている様子もなく、関係を終わらせることに関しても特に反対はしなかった。こうして二人の半年の不倫関係はあっさり終わったが、真由美の中にはまだ問題が残っていた。

手紙の送り主も分からず、またいつ同じようなものが送られて、不倫をネタに脅されるかわからない。或いはこれは夫の依頼した浮気調査なのかもしれない。そうだとすれば離婚は免れないし、生活はめちゃくちゃになる。

不倫をした当初、もしかしたらばれるかもしれない。そう思った時もあったが、それでも仕事で家を空ける夫のいない孤独に対する不安は消えなかったし、寂しさの方が罪悪感に勝ってしまった。

けれどもそれはもしばれた時に離婚を覚悟していたということとは別の問題で、久保田と不倫をした当初から今まで彼女はこの関係が第三者や夫にばれることが怖かったし、そのことで家庭が終わりを告げるのが何よりも恐ろしかった。

それが今現実になろうとしている。

しかし白い封筒が届いてから一週間してからも、特に何も起きなかった。家に帰ってきた夫も不倫のことや封筒のことに気づいている様子はなく、久しぶりに暫く家にいられる時間が作れると呑気に喜んでいた。

この日は真由美もパートがなく、夫も仕事がなかったので久しぶりに二人で出かけようということになり、近くのショッピングモールに来ていた。

夫の洋服や真由美のアクセサリーを見て、夕飯の買い物をしているうちに段々と封筒のことや浮気のことも真由美の頭の中から消えかけていた。

「ここのアクセサリーショップ、付き合っていた頃よく二人で来ていたよな」

そう徐に夫が口を開いた。特有名でもないその店は、ハワイアンジュエリーや変わったネックレスなどが多く、お揃いのネックレスや指輪を二人でよく買った場所だった。

買ったアクセサリーにはレーザーで刻印をしてもらったりすることもでき、値段も手頃なので学生カップルと見られる客が多くいた。

「久しぶりにお揃いのネックレスでも買おうか」

そういって夫は店内に足早に進んでいく。

「これなんかどう?」

夫が手にとって見せてきたペンダントトップを見た瞬間、真由美の中で忘れかけていた記憶が蘇った。それは一週間前に彼女の家に届いた封筒の中に入っていた無記名のペンダントトップと全く同じ物だったのだ。

しかし夫はそのことを知っている風ではなく、一人でそのペンダントトップの中に入れられる石を選びながらはしゃいでいた。

買い物の間真由美は殆ど会話や中の石、チェーン選びのことは記憶になく、上の空で買い物をしていた。

「ポイントカード持っているでしょ?」

夫のその言葉で我に返った真由美は慌てて財布の中からショッピングモールのカードを取り出し夫に渡した。

返されたカードを財布にしまいそのままジッパーを閉めようとしたとき、彼女は気づいた。一週間前、確かに財布の中に閉まっておいた無地のプレートが消えていることに。

離婚のカギ【第1話】

真由美は都内のホテルの一室で煙草を燻らせる久保田の背中を見つめていた。

彼女が久保田と不倫関係になってから半年が経とうとしているが、夫の坂井篤が彼女の裏切りに気づく気配はない。

平日の朝方ということもありホテルの窓から見える景色はスーツ姿の男たちで活気づいている。

「次、いつ会える?」

真由美のほうを見ようともせず愛想なくそう問いかける久保田の背中を見つめながら、彼女は少し哀しい気持ちになった。

ホテルを出て昼の街に出るとすっかり活気づいていた。先週末から大阪に出張に出ている夫に義務的にメールを送信したのち、すぐに家に帰るのも勿体ないと思ったので買い物をすることにした。

特に何か欲しいものがあるわけでもなくぶらぶらしていると、真由美はいつの間にか男性衣料やバッグを扱う店に入っていた。

店内を見回していると男性店員が近づいてきて、愛想よく接客をしてくる。それを適当にかわしながら店内を見ていると、ふと目に入ったものがある。

それは昨晩ホテルで久保田に会ったときに彼が身に着けていたネクタイだった。紺色のそれを見ていると夫のことなど頭には全くない自分にふと嫌気がさした。

そして、久保田との秘密の関係を続けている自分に対して嫌気がさす程度には夫への愛情が残っていることに若干の安堵も覚えたのだった。

そんなことを考えながらも買い物を切り上げて家に帰ろうと決めた真由美の携帯が振動し、メールの受信を伝える。

相手は夫の坂井篤で、明日の夕方に大阪から戻るとのことだった。そのメールに返信はせず、彼女はメールの新規作成画面を開き久保田へとメールを送る。

電車に乗り込むと時刻は15時前で買い物帰りの主婦や学校帰りの学生たちで混んでいた。

久保田からの返信はなく、携帯を確認する回数ばかりが増えるので夫にもメールを返すことにした。明日の晩御飯は何が良いか?そんな内容のメールを打ちながらも彼女は罪悪感を抱いていた。

家に着く。学生のころに夫と結婚して今年で五年目になり、去年買った新築の一軒家を見上げる。夫の収入の割には豪華な外観と無茶なローンで建てられたその家には今は自分しかいない。

夫は仕事柄よく家を空ける。久保田にはホテル代が嵩むから夫がいない間は家で会おうと提案されたが彼女はそれを嫌がった。夫の買った家で不倫をするのが嫌だったというのもある。

久保田もまた、真由美を家に招き入れるのを嫌がった。理由は聞いていない。靴を脱いで鞄を下しひと段落すると、彼女は麦茶を飲みながら投函されていた郵便物に目を通す。

近くのスーパーのセールのちらし、新築にも関わらず入れられたペンキ塗やマンション購入の案内をゴミ箱に放り投げながら、そのうち一枚の封筒に手が止まる。

無地の白い封筒に兎のシールで封がされている。送り主は書かれておらず、自宅の住所や宛先も書かれていないその封筒に一瞬戸惑いを感じたが、特に深くは考えず封を切る。

その中には数枚の写真が入っていて、そこには真由美が久保田の腕に手をまわしている写真、二人がホテルに消えていく瞬間が抑えられている写真の二枚が入っていた。

驚いた彼女は反射的に写真の入っていた白い封筒を握りつぶしてしまったが、その時に何も入っていないと思っていた封筒の中に何かの感触を覚え、くしゃくしゃの封筒を元に戻しながらそれをひっくり返してみる。

中からはステンレスのプレートが出てきた。真由美はそのプレートに見覚えがあったが、それが何処で見たものかまでは思い出せなかった。

プレートを財布の中にしまい、二枚の写真をシュレッダーにかけ終えると彼女は急いで電話をする。もちろん相手は久保田だ。

何度電話をかけてもひたすらに呼び出し音がなるばかりで、久保田が電話に出る気配はない。久保田の仕事はバーテンダーだ。

基本的には夜中の仕事が多く、密会をするときも朝方に久保田の仕事が終わった後で、それから行為をした後、朝のうちか昼前に別れるのがいつものパターンになっている。

今頃の時間は夜中の仕事に備えて寝ていることが多く、電話に出ないのもいつも通りのことだ。しかしそれがいつものことであっても真由美は焦っていて、久保田以外に味方がいないような気がした彼女は必死に電話を鳴らすことしかできないのであった。

一目ぼれ

今日は、朝からツイてない。
目覚ましが鳴らなかったので、寝坊した。
だから、当然のように、朝食も抜き。
おまけに、自転車で駅へ向かう途中、タイヤがパンク。
結局、いつもの電車に乗り遅れ、少々遅れ気味で学校の最寄り駅に着く頃には、雨まで降り出した。
ツイてない日は、とことんツイてないらしく、校門の前には鬼のような形相の、熱血体育教師で生活指導兼務の勝山が立っている。
「こら、真辺! きさま、遅いぞ。
ダラダラ歩いとらんで、さっさと走って来んかーっ!!」僕の姿を確認するなり、愛用の『お仕置き棒』を振り回しながら怒鳴っている。
「おい、真辺、聞いとるんか~!!」無茶、言うなよ。
信号、赤だって・・・★横断歩道の対岸にいる僕に向かって、勝山は怒鳴り続けた。
「先生、おはようございます。
朝っぱらから、お役目ご苦労様です。
大変ですね」爽やかな微笑みつきで、そう言ったのだが、やっぱり勝山には通じなかった。
「この時間の、どこが早いんだ? 明日から、俺と一緒にここに立つか」「いいえ、結構です」タイミングよく、予鈴が鳴り始めた。
「あっ、予鈴だ。
では、先生。
急ぎますので、僕はこれで」助かった、と胸を撫で下ろしていると、背後から聞き覚えのある声がした。
「ヤバ~イ! 完全に、遅刻だ…先生、ゴメン!!」振り返ると、勝山が閉めかけている門を、軽々と飛び越える女の子の姿があった。
そいつは、優雅に着地を決めると、顔を上げた。
「柚木、また、きさまかっ!! 今度遅刻したら、罰当番だって言った筈だ!」「あら、勝山先生。
お言葉ですが、予鈴が鳴っているようですよ。
ということは、当然、セーフですよね」ニッコリと可愛く微笑みながら、柚木藍はそう指摘した。
柚木は、華奢な体型にカワイイ顔立ち。
頭が良くて、何をさせても完璧にこなす、まさに非の打ちどころのない女の子。
僕と同じ1年C組だけど、残念ながら、席が近いわけでも親しい間柄というわけでもない。
「全く!! ああ言えば、こう言う。
だから、頭の良いガキは嫌いだ!」「ありがとう、センセ。
愛してる」そう言って投げkissを送ると、僕の側へ駆けて来た。
これには、内心驚いた。
「真辺くん、おはよう。
キミが遅刻なんて、珍しいね」「…おはよう。
寝坊の上に、自転車がパンクしたんだ」「あら、ご愁傷様」僕達は上履きに履き替えると、廊下を早足で歩いていた。
「柚木、遅刻の常習犯なのか?」「まぁ、ね」「それにしても、運動神経良いんだな。
見てたよ、校門を軽々と飛び越えるところ」「あんなの、大したことないよ……昔、練習したからね」そう呟くと、彼女は瞳を伏せた。
「練習? 体操か何か、やってるのか?」「まぁ、そんなところかな」彼女は曖昧に返事をすると、それ以上何も言わなかった。
多分これが、入学以来、密かに憧れていた柚木藍と、初めて交わした会話だった。
他愛もない会話だったけど、その日以来、僕と柚木は仲良くなっていた。
と言うより、彼女の方から声を掛けてくれるようになったのだ。
「真辺くん、一緒に帰ろう」ニッコリと微笑みながら、今日も柚木は言う。
「あっ、うん・・・」いつものことだけど、柚木と並んで歩いていると、周囲の視線が彼女に集まるのが分かる。
その視線は、やがて隣にいる僕へと向けられるのだ。
知らないヤツが見れば、付き合ってるように見えるのかもしれない。
柚木は、何とも思わないのだろうか?僕は、意を決して、思っていることを口にしてみた。
「なぁ、柚木。
どうして、僕なんかと一緒に帰るんだ?」「一緒に帰りたいから」あっさりと返ってきた答えは、これだった。
そんな柚木を見つめていると、僕の心を見透かしたような表情で訊ねて来た。
「答えになってない?」「いや、別に」「もちろん、真鍋くんのことが好きだからだよ」僕は、一瞬耳を疑った。
そ、それは、もしかして、告白ってヤツか!?告白された経験は元より、告白した経験さえない僕は、しばし呆然と立ち尽くした。
『僕もだよ』とか、言った方がいいのかな?思考能力がすっかり吹っ飛んでしまった頭で、必死に考えていると、何事もなかったように、柚木が訊ねて来た。
「クスクスッ・・・真鍋くん、どうしたの? 私、何か変なこと言った?」と。
そして、気付いた。
柚木は僕のことを、“異性として見ていない”、ということに。
それは、薄々気付いていたコトだけど、かなりのショックを伴い、心に突き刺さって来た。
だが、そんな僕の気持など全く気付いていないらしく、柚月はどんどん先へと歩いて行く。
その後を追って、僕も駅の近くにある公園内へと入って行った。
「私ね、6歳の時に誘拐されたことがあるの」「はぃ?」「実家は、結構お金持ちでね。
身代金をふんだくった挙句、口封じで殺されるところを、仲間の一人に助けられたの」一体、何の話をしてるんだ・・・?「ところが、私を助けたのはいいけど、家に帰す訳にはいかないって。
十歳になるまでの四年間、ずっとその人、秀治と二人で暮らしていたの。
見た目は、モデルか俳優張りの容姿だったけど、普段は詐欺師で、窃盗団とも繋がってたわ」それって、ドラマか何かの話か!?僕は口には出さず、柚木の言葉を待った。
「秀治と暮らした四年間、私は学校へ通うより、その片棒を担がされてたの。
五年前、彼が殺されるまでね」そう言って、少し寂しそうに笑った。
もし、その話が本当なら・・・あの運動神経は、その時培われたモノだったのか?「学校に行けなかった分、秀治がありとあらゆる知識を教えてくれた。
今でも、そのことに関しては感謝してるわ」俯き加減に話していた柚月の頬に、涙が伝わった。
「柚月・・・?」「秀治が撃たれた直後、彼を狙っていた組織の車に、私も撥ねられて・・・何日も生死を彷徨った挙句、それまでの記憶を無くして。
つい最近まで、全く思い出せなかった」僕は、思わず柚木を抱き締めていた。
「もう、いい。
よせよ、そんな話」「この話をしたのは、真鍋くんが始めてよ。
不思議ね、あなたと居ると凄く安心できるの」そう言って顔を上げると、間を置いて、こう続けた。
「私のコト、嫌い?」少し瞳を潤ませ、どこか不安気な表情で。
こんな表情を見せられて、嫌う男が居るだろうか?「僕も、好きだよ。
入学した時から、ずっと」素直な気持ちでそう答えると、彼女の不安を取り去るように、抱きしめている腕に力を込めた。
「ドラマや小説だと、無くした記憶が戻ると、それまでの記憶が消えてしまうって言うけど。
真鍋くんを好きだっていう記憶が、消えなくて良かった」ほんのり頬を染めながらそう呟くと、僕の腕からすり抜けた。
そして、空いていたブランコに座ると、柚木は思いっきりこぎ出した。
僕も隣のブランコに座り、同じようにこいでみる。
彼女のブランコは、あっという間に高さを増し、見ているこっちがハラハラするほどだった。
「柚木、危ないよ!」そう注意した途端、彼女は掴んでいた鎖から手を放した。
「ゆ、柚木っー!?」勢いのついたブランコから投げ出された柚木は、空高く浮かび上がり、すぐに放物線を描くように落下し始めた。
次の瞬間、彼女は身体を丸めると宙返りし、目の前の黄色いポールの上に見事な着地を決めた。
僕は慌ててブランコから飛び降りると、彼女の側へと駆け寄った。
「私の告白は、これでお終い。
これからは、普通の女の子として生きて行くわ」「そうだね・・・何があっても、僕が柚木を守るよ」柚月は、嬉しそうに微笑んだ。
それ以来、藍は並外れた運動神経を封印し、普通の女の子として、生活している。
7年後――大学を卒業するのを待って、僕達は結婚した。
平凡だけど、いつも笑

夕闇の月【後編】

「敦子が家にいるから、安心して家を空けられるわ」

両親はそう言って、二人で2泊から4泊の旅行に行った。実家には12歳になる雌猫がいた。敦子にとてもなついていて、座っているとどこからともなくやってきて、膝の上に乗った。なでると気持ちよさそうで、その穏やかな表情に敦子の気持ちもほころんだ。

早朝と夕闇の頃、敦子はカメラを持って散歩に出た。それから撮った写真をブログに載せた。洋介は敦子のブログに、最初にコメントを書いてくれたゲストだった。
敦子は洋介と言葉を交わしていると、不思議な安らぎを覚えた。深く抱擁されているような、心の温もりを感じた。好きになるのに時間はかからなかった。

「今度、コーヒーでもどうですか?敦子さんさえよければ、本当は食事に誘いたいんだけれども。美味しいお店知ってるんですよ。それとも気楽な感じで居酒屋のほうがいいのかな?今度の土曜日はどうですか?」

「両親が旅行に行っていて、家で一人なんです。誘っていただいて嬉しいです」

「僕たちタイミングもピッタリですね」

そんな風に素直に喜びを表現してくれる洋介に、敦子は信頼を覚えた。洋介は来るもの拒まずで、誰とでも話をしたが、とてもプライベートな人だった。内面世界を大切にしている、何か面白いことを考えている、彼からはなにかしら伝わってくるものがあり、敦子の心のひだを震わせた。

食事はとても美味しかった。洋介のセンスの良さと優しさを、じんわりと人柄を感じた。食事の後、二人は夜の街を散歩しながら話した。秋の街はネオンで彩られ、肌寒さを忘れるほど、会話は弾んだ。一瞬、風が吹いて、アッと気を取られている瞬間、敦子の手は洋介の手にすっぽり包まれていた。

「お酒に付き合ってくれませんか?」

「ええ、喜んで」

洋介が連れていってくれたお店はジャズバーだった。オーナーの音に対するこだわりが行き届いているシックな空間で、照明はやわらかく落としてあり、グラスが夜の明かりでキラキラ綺麗だった。そしてジャズのレコードが流れていた。敦子はうっとりと聴き入った。

「敦子さん、ここいいでしょう?」

「ほんとに素敵ですね」

「あれ、洋介さん、今日は一人じゃないんですね。あ、初めまして。大久保と言います。洋介さんがお連れさんと一緒だなんて初めてですよ」

「宮脇敦子さん。僕の彼女です。なんて言ったら怒られちゃうかな。一度、宮脇さんとこのお店で飲みたいって、前から思ってたんです」

「それはうれしいですね。一度なんて言わずに、宮脇さんとご一緒に、いつでも来てくださいよ」

「はい。ありがとうございます。ぜひ・・・」

アン・バートンのハスキーで艶のある落ち着いた歌声が、しっとりと響いている。

「敦子さん、僕たちが出会った日のことを覚えていますか?僕はよく覚えています・・・。最初からあなたに惹かれていました」

洋介は真っすぐ敦子を見ていた。敦子の頬は赤く染まり、体は息苦しいほど熱かった。心のなかを洋介に見透かされてしまったようで、恥ずかしくなり瞳を伏せた。直ぐには言葉が出てこなかった。
カクテルで喉を潤した。

「外に出ませんか?」

「はい」

秋の街路樹は鮮やかで、夜の街をノスタルジアに染めていた。
「敦子さん、この2年間僕たちはほぼ毎日、言葉を交わしてきました。交流があった・・・。僕はこれまで誰かと、こんなに親密になったことはありません。あなたといると、安心して僕は僕でいられる。あなたも同じでは?僕はそう感じていますよ。敦子さん、これからの生涯を伴にしていただけませんか?」

いつかこの日が来ることは感じていた。でもいつかはわからなかった。時折、現世では叶わないのかもしれないと思うことで、諦めようともした。

敦子は頷いた。

洋介が敦子を抱きしめた。洋介の胸は温かかった。

「ずっと好きでした」

「私も・・・」

二人の鼓動は響き合い、澄んだ夜空には月が輝いていた。

夕闇の月【前編】

地元での暮らしは非常に苦手で苦痛だった。どこに行っても知り合いに会う。高校卒業と同時に地元を離れた。最後に地元に帰ってきたのは30歳の時だった。3年前、離婚し、実家へ帰ってきた。

「少しゆっくりしなさい。それから今後のことを考えたら?」

疲れ切り、何も考えることができなかった敦子にとって、両親の言葉は身に染みた。敦子は38歳になっていた。昔から比べたら大分ふくよかになっていたが、知り合いに会う度、すぐにわかってしまうらしく

「全然変わらないからすぐにわかったわよ。でも少しふっくらしたわね。ねえ、今度ランチでも行かない?」と人の良い地元の友達はこんな風に誘ってくれた。

「電話番号教えて?今度会わない?」と訊かれても、

「ごめんね、今急いでいるの。またね」と言って交わし、誰とも電話番号の交換をしなかった。いつしか、敦子は孤立している、と噂が立ち、誰も敦子の電話番号を訊かなくなった。
会えば決まって、今、なぜ実家にいるのか、という話になり、離婚の話になるだろう。彼女たちは敦子に気を使って、あるいは実際夫婦仲があまりよくなくて、夫の愚痴をこぼし始めるだろう。

(結婚なんてこんなものよ。私も本当は別れたいけれど、子供がいるでしょう。だから今は我慢しているの。そのうち見てなさい、って心の中じゃ思っているのよ)

なんて話になるだろう。でもそんなことを言えるうちは、まだ夫婦仲はうまくいっている。本当にイヤになると、やがてそれは無関心に変わるのだ。そうなるともう見込みはない。一緒にいて、いないも同然。家庭内別居である。

彼女たちの幸福な不満に付き合っていられるほど、気持ちに余裕はなかった。夫はある日、家を出た。敦子は夫を愛していたし、夫も敦子を愛していた。でも夫は家を出たのだ。そして突然、離婚届けが送られてきた。

「すまない。別れてくれ。僕は君の期待には応えられない。何もかも疲れてしまったんだ。何も訊かずこのまま別れてほしい。家も土地も君の好きにしていい。今までありがとう。身体には気をつけて。僕のことは忘れて、新しい人生を歩んでください」

と手紙が入っていた。
敦子は晩ご飯の後、一人で散歩をするのが好きだった。実家に帰ってきてから始めたこの散歩。夕闇の空を見上げると白い月が浮かんでいる。自然と笑みがこぼれる。この時間が一日のなかで最もリラックスできたし、ホッとした。帰る頃には、月は明るさを増し夜空に輝き、道を照らしてくれる。
月の出ない日は、かくれんぼをしている子供のような心持になったりした。
孤独だった。心底孤独だった。薄暗い闇に浮かぶ赤い花が目に染みた。一人っ子だったので、話せる兄弟はいなかった。友達もいなかった。

地元に帰ってきて、3年経つ。最初の1年間は家事を中心に一日が回っていた。土地と家は処分し、半分は両親にプレゼントした。半分はそっくりそのまま貯金した。お金には困っていなかったが、このまま家にばかりいると、外に出るのが恐くなり、立ち上がれなくなりそうで、地元から車で40分ほどの街の設計事務所に就職した。そこで事務の仕事をしている。
職場は人に恵まれ、働きやすかったが、仕事とプライベートは完全に切り離していた。職場へは車で通っていた。遠いということもあり、飲みに誘われて断っても、嫌な顔をされることもなかった。

敦子は昔から詩を作っていた。口下手だったこともあり、話すよりは書くことで気持ちを表現した。写真を撮るのも好きだった。離婚後、気持ちを解放させる場所がほしくて、写真と詩のブログを始めた。それは敦子のひそやかな秘密であり、楽しみだった。ブログでの遣り取りだけが、唯一の他者との交流だった。

「この月の写真、今さっき撮りました。あなたに最初に見ていただきたいと思って、載せました」

洋介は敦子のブログの常連だった。毎日来てくれて、更新するたびコメントを残してくれた。

「あなたの写真を見ていると、僕もそこにいるような気がしてくるんですよね。不思議なんだけれど」

洋介の言葉は敦子の感覚を一つに集中さて、心に深く染み込んだ。

夢の中の人【後編】

交差点を過ぎたところだった。あれ?最初、目を疑った。夢のなかのあの人がいる。紺のポルカドットの白地のブラウスに、ベージュ色のセミタイトのスカートを着ていた。夢のなかとは時代も服装も違っていた。でも間違いなく彼女だ。僕は見失わないように後を追った。すると彼女は振り向いて、僕に会釈した。
僕は向こう側にいる彼女目差して、迷わず道を渡った。

「あの、すみません。どこかでお会いしたことがあるように思ったものですから・・・」

息を切らせながらも、僕は必至だった。夢のなかで僕は彼女と一緒にいた。彼女はバラの香りがした。僕たちは互いを知っていた。
彼女の澄んだ目が真っすぐ僕を見ていた。心の奥底まで浸透するような瞳で。

「やっと、会いに来てくれたのね」

彼女がそう言った。虹色のエネルギーが僕を貫いた。

目を覚ますと、木漏れ日が降り注いでいた。風の音が弾け合って、クリスタルな音を奏でていた。僕たちは森のなかにいた。

「おかえりなさい。あなたを待っていました」

「ここはどこですか?」

「西暦3415年の地球です。私たち人間はより高い次元の民となり、衣食住の束縛から解放されて、光の人となりました。今でもあなたが食事を取りたければ、取ることもできます。ただ私たちの体は食物なしでも生存できるのです。病も老いも死もありません。真実の愛と平和の星へと地球は進化したのです」

「どうして僕はここにいるのですか?」

「ここがあなたの故郷だからです。家だからです」

僕は頭を振って、目を凝らして辺りを見渡した。巨大な木が間隔を保って生えており、緑の苔の絨毯が地上を覆っていた。さまざまな花が咲き乱れ、シダ植物が木漏れ日の差し込む場所で生えていた。
生まれてこのかた、こんなにも美しく、平和に満ちたところを見たことがない。ここは天国だろうかと思ったりもした。

「目覚めたいですか?」

「あなたと一緒にいられるのなら、目覚めたいです」

「行きましょう」

彼女と手を繋いだ途端、湖が現れた。僕たちが湖に入ろうとすると、水かさが浅くなり、小径のようなステップストーンが現れた。僕たちはその石の上を歩いた。歩き始めると、辺りの景色はまるでパノラマのスクリーンで見る映画のようになり、これまでの地球の歴史を見ながら、僕たちは歩いた。歩きながら僕は、人間がこれまでおさめてきた、ありとあらゆる学問を学んだ。

彼女が僕を見て微笑んだ。そして僕たちは一緒に笑った。子宮にいた頃はこんな風だったのかしら、と思うほど、満ちたりた愛と安らぎに包まれていた。五感は澄み渡り、至上の至福が足元から湧いてきて、僕たちは地上に浮いた。

「もうすぐですよ。これから光のシャワーを抜けます。でも一つだけ、お願いがあります。絶対に目は開けないでください。無事にここを通過したら、私たちは祝福を受けて、完全な人となります」

光のシャワーは神々しく眩しくて、とても目を開けられるような状態ではなかった。僕は彼女の言った祝福について考えていた。その時、不意に彼女の手が僕の手からすり抜けた。僕は考える間もなく、目を開けていた・・・。

朝の光がカーテンから差し込み、僕は太陽が眩しくて目が覚めた。隣にはいつものように穏やかに、佳代子が眠っていた。

仕事が早目に終わり、僕は目的地もなく歩いていた。いつの間にか僕はあの交差点へ来ていた。そして同じ場所で彼女を見かけた。僕は無我夢中で彼女を追いかけた。彼女はゆっくりと歩いていたが、距離が縮むことはなかった。そして彼女は振り向いて、僕に手を振った。彼女の目からスーッと幾つもの涙が流れ落ち、彼女とともに消えていった。