きみの名を

「呼んでこい」と言われ、渋々ホウキを壁に掛けた。
本当はかなり嫌だ。
しかし私のクラスの担任は、こちらが文句を言うと、更に頑固になってそれをさせようとする。
そうなったら、結局言われた通りにするしかないのだった。
こういうのは普通、仲が良い男子に行かせるものではないのか。
ため息が漏れた。
話し掛けるのはかなり久しぶりなのよね、さっちゃん……。
廊下に出て、辺りを見回す。
廊下はまだ帰らずに談笑していたり、掃除当番の友人を待ったりしている生徒でいっぱいだ。
喧騒の中を探していると、中には私の友達もいた。
今週中は私の班が掃除当番だから、待ってもらっていた。
彼女ら二人は、私を見て不思議そうな顔をした。
「あれ、夏実もう終わったの?」「早くない?」そうだったら、どんなにいいことか。
彼女たちの前へ行き、首を振った。
「まだ掃除中よ。
担任に佐野のこと呼んでこいって言われたの。
見なかった?」さっちゃん、と呼びそうになるのを、なんとか抑えた。
昔からの癖だ。
佐野皐月だから、さっちゃん。
女の子のようなそのあだ名を、本人に対して使ったことは、ほとんどない。
「んー……あっちのほうにいた気がする。ね?」「うん。サッカー部の連中で騒いでたよ」トモと亜紀は顔を見合わせて頷いた。
トモが指差した方向を見やる。
三つ程先のクラスの前だった。
注視すると、確かにさっちゃんの姿があった。
同じ部活の部員で集まって、何やら爆笑している。
笑い声が廊下に響いた。
ああいうところ程、呼びに行きにくい。
私だって掃除当番なんてやりたくないのに、真面目ぶっているみたいで嫌だった。
「ありがと」二人に、もうちょっと待ってて、と言い残し、仕方なくさっちゃんのいる集団へ向かう。
さっちゃんとは、幼稚園からずっと同じ学校に通っている、言わば幼馴染だった。
中学まではそんな人ばかりだったが、高校にもなると、こうも長く同じなのは、彼くらいだった。
誰が呼び始めたのか、幼稚園では既に、彼はさっちゃんだった。
みんながそう呼んでいるから、私も当然のようにそう呼んでいた。
ただ、本人をそう呼んだことはあまりない。
成長するにつれて、どんどんそんな機会はなくなっていった。
しかし、少なくとも誰かと彼のことを話す時は、そう呼んだ。
確か、中学二年の頃……一時期、彼はそう呼ばれることを拒んだ。
年頃の男の子なら当たり前だろう。さっちゃんなんて、女の子かと思われてもおかしくない。
彼は男子の癖に、可愛い顔をしているから、尚のことだ。
それでも、いつの間にか彼はそう呼ばれるのを嫌がらなくなり、さっちゃん、が彼の呼び名として再び自然になった。
しかし、高校では流石にそう呼ばれることはない。
彼が自らそう名乗らなければ、高校にもなってそんなあだ名は付けられないだろう。
幼稚園児だからこその、無邪気な呼び名だったのだから。
だから、依然トモと亜紀に彼のことを幼馴染だと話した時、うっかりさっちゃんと呼んでしまい、二人に奇妙な顔をされた。
彼女たちは、さっちゃんを知らない。
佐野しか、知らなかった。
私も佐野と呼ぶように気を付けている。
さっちゃんなんて読んだら、変に親しいようで、彼が嫌がると思った。私も恥ずかしいし。
それは、直接彼をそう呼んだことはあまりないから、簡単だと考えていたが、意外と難しい。
染み込んだ名前は、容易には抜けなかった。つい、さっちゃんと呼んでしまいそうになる。
本当は、そう呼びたい気持ちもある。
幼馴染なの、と周囲に牽制したいという、いやらしい理由からだ。
だって、まだ一年の夏を越えたばかりなのに、彼は何人にも告白されている。
全て断った、という噂だが。中学までは、そうでもなかった。
みんな見慣れていたのかもしれない。外に出れば、あっという間に人気者だ。
亜紀曰く、カッコ可愛いそうだ。その言葉は的確に思える。
そんなことを考えているうちに、サッカー部の笑い声がもう目の前にあった。
さっちゃんは集団の真ん中で笑っている。彼は笑うとえくぼが浮かぶ。
先程までの考えを振り払い、間違えないよう、佐野、と何度も口の中で繰り返す。
彼はさっちゃんではなく、佐野だ。
しかも、笑い声に埋もれないように、大声を出さねばならなかった。
「佐野! 先生が呼んでる!」自分で思っていたよりも大きな声が出た。
サッカー部員の視線が、一気に集まる。
その中の数人は同じクラスだった。
ああもう、なんで私がこんなことやらなきゃいけないのよ……。
私だって掃除なんて嫌だし、これで周りに真面目と思われるのも嫌だ。
うんざりして、それだけ伝えて踵を返した。
彼にも聞こえていたようだから、無理に連れて行かなくても、そのうち教室に来るだろう。
そこからは教師の仕事だ。苛立っているせいで、自然と大股になっていた。雑踏を早足で抜けて行く。
「おい、なっちゃん!」「な……!?」信じられない呼び方をされ、つい勢いよく振り返ってしまった。
さっちゃんが駆け寄ってきて、隣に並んだ。
そして何事もなかったかのように、歩き始める。
私は呆然として、立ち止まったまま、彼の背中を凝視した。
「なっちゃん?」少し先へ行ってから、彼は足を止めこちらを向いた。
……また、なっちゃん、って。
何を言ったらいいのか、わからない。間違ってはいない。私はなっちゃんだ。
高校生になるまでは、ずっとそう呼ばれていた。
彼と同様、幼稚園からそのあだ名で通っていた。
でも、まさか彼にまで呼ばれるなんて。
どうやら彼は、私を待っているらしい。
のろのろと彼の横に歩んだ。すると彼はなんだか満足げな顔で、再び歩き出した。
その横を歩きながら、ちらりと彼を見上げた。
「……ねえ、なんでなっちゃんって呼ぶのよ」不満なわけではない。
むしろ、嬉しかったが、それと同時に恥ずかしかった。まるで特別に仲が良いみたいだ。
さっちゃんにこれまで、あだ名で呼ばれたことはないはずだ。
他の人に呼ばれたところで何とも思わないのに、彼に呼ばれただけで、体が溶けてしまいそうだ。
「だって、なっちゃんだろ?」私の言葉のほうがおかしいかのように、彼は不思議そうな表情を浮かべた。
「そりゃそうだけど、でもいきなりじゃない?」「え、前から呼んでるって」たぶん、と彼は不安そうに付け加えた。
あまり覚えていないようだ。呼ばれたことが、あっただろうか。
私は覚えていないけれど、あったのかもしれない。
覚えていないのは、勿体ない気がした。
「でも、苗字とか、あるでしょ」「あー……苗字? 苗字?」「もしかして、私の苗字わかんないの?」十年以上も同じところへ通っていて、信じられない。
私は彼以外にも、女子も男子もフルネームで覚えているのに。
彼を見上げると、目を逸らされた。
本当にわからないようだ。いやー、と彼ははにかんだ。
「だってずっとなっちゃんで覚えてたから、仕方ないだろ」言い訳がましいことを言いながら、彼は苦笑した。
苦笑だって、愛らしい。昔から彼は、笑えば許されてしまうところがあった。
彼の笑顔を見ると、まあいいか、許しちゃおう、なんて思ってしまうのだ。ズルい笑顔だ。
私もそうなってしまいそうになるのを、慌てて考え直した。
「仕方なくない。本井よ。も、と、い」一文字ずつはっきり名乗ると、彼はオウムのように、本井、と繰り返した。
コクコクと頷きながら言うので、幼い子供みたいだ。
可愛い、なんてやはり思ってしまう。
「覚えた?」「覚えたけど、使わなきゃ意味なくね?」本井、本井、と彼は何度も呟く。
その声は確かに私の耳に届いているけれど、呼ばれている気がしない。
なっちゃんで、構わない。これからもそう呼んで欲しい。
そう望んでいるのだが、口からはその通りの言葉は出て来ない。
「使ってよ、ちゃんと」もっと素直な言葉が出てきたら、どんなに楽だろう。
自分自身が嫌になる。まだ特別な呼び方でいられるのに、馬鹿な私だ。
「別にいいじゃん、なっちゃんで」「だ、だって、仲良いみたいじゃない」実際は呼び名だけで、それ程話したこともないのだ。
それにも関わらず、あだ名で呼ぶのは変だ。
「幼馴染だから、仲良いだろ?」雑踏の音が止んだような気がした。
気のせいだ。私たちの周囲では、各々が笑い声を零している。
不意に足を止めた私を見て、彼は首を傾げた。
彼にとって、これは、特別な言葉ではないのだ。
私がこんなにも考えているのに、彼はきっと、何も考えていない。
ムカつくなあ。さっちゃんがそれいいなら、私は何だっていい。
私たちは、幼馴染で、仲が良い。
恐らく彼にとっては、友達。
「だからなっちゃんも、俺のことあだ名でいいんだけど」「は?」「前はさっちゃんだったよな?」たった数回しか直接呼んでいないのに、覚えているなんて、予想外だった。
そんなこと、彼にしてみれば大したことではないだろうから、気にもしていないと思っていたのに。
「呼んでた、けど……」だからといって、今は以前とは違う。
そんな風に呼んでは、誤解だって生むだろう。
勿論、彼と私では釣り合わないと自覚しているが。
彼にだって、誤解されたくない相手くらいいるだろう。
それでも、呼んでいいのだろうか。
「呼んで、いいの?」不安に顔を上げる。
見慣れた、可愛らしい彼の顔がそこにはある。
「なっちゃんがいいなら」「なによ、それ」私が嫌なはずがない。
特別に呼んで、いいのだろうか。
そう躊躇するが、呼びたい、という気持ちは強かった。
そもそも、彼にとっては幼馴染をあだ名で呼び、呼ばれることは、何も特別ではない。
私が勝手に特別だと感じてしまうだけだ。
私の中だけで、特別だと思っている。
それはつまり、自己満足だ。
それなら、許される気がする。
特別な呼び方も含めて、ただの片想いだから。
「まだー?」「うるさい、さっちゃんの癖に」「すごい使い方してきたな……」呆れた声を出した彼の横を、通り過ぎる。
彼は大股で、すぐに私に追いついた。
私はさっちゃんを呼びに行くよう言われただけなのに、時間が掛かってしまった。
戻ったら、私まで遅いと怒られそうだ。
「つーか、担任何の用だって?」思い出したようにさっちゃんは首を傾げた。
「何の用じゃないわよ、掃除当番!」「あ」「どうせ忘れてたでしょ、さっちゃん」今のは自然な呼び方だった。
思わず自画自賛する。
横目で彼を見ると、やけに嬉しそうな顔をしていた。
何故そんな表情を浮かべているのだろう。
そんな顔をされてしまったら、次からは自然に呼べないのに。
なっちゃんは真面目だよな、と彼は呟いた。
「真面目じゃないわよ、全然」教師に呼んで来るように言われたからといって、相手が彼でなかったら、他の人に押し付けていたかもしれないのだから。
さっちゃんだから、呼びに来たのよ。
そんなこと、言えるわけがなかった。
私もきっと、彼と同じような顔で、笑っているだろう。