朝の風【前編】

美佐子のテンションは異常に上がり、朝からバタバタと掃除をしていた。毎日、小まめに掃除をするタイプではなかった。思い立ったら吉日、そんな風に、一気にまとめて掃除をした。

「あんたも手伝ってよ」

「今は無理よ。こっちを先に片付けないといけないのよ」

美佐子が大事な話があると言うので、京子は2ヶ月ぶりに実家に帰ってきた。今日の美佐子は何だかうれしそうだった。

「ねえ、京子、あなたに良い話があるのよ。どう、素敵じゃない。お医者さんなのよ。これ で京子も将来は安泰よ。あなたが落ち着いてくれたら、お母さんも助かるわ」

「お母さん、私、まだ27よ。結婚する気なんて当分ないわよ」

「何言ってるのよ。まだだなんて。もうでしょう?女はね、若ければ若いほど、市場価値が上がるのよ。決めてしまいなさい。相手の方は須藤芳樹さんという方でね、前に一度だけ結婚していたんですって。でも子供はいないそうよ。お仕事が忙しすぎて、ついつい家庭をおろそかにしてしまったのね。歳は45よ。こんなに良い話はなかなかないわよ」

「わかったわ。考えとく」

「考える前に、一度会ってみたら?あなたのこの前の、えー、なんて言ったかしら、桜井さんだっけ?あの人より、ずっといいじゃない。だって須藤さんは独身なんですからね」

「お母さんって、古傷を抉るようなことが本当に好きね」

「どれだけ心配したか・・・。京子もいつか親になったらわかるわよ」

母は泣いていた。けして仲の良い親子ではなかった。むしろ仲が悪かった。それでも母の涙は、京子の胸に刺さった。

(私だって、何もわざわざ結婚している男の人を好きになったりはしないわ。好きになった人が、たまたま結婚していたのよ)

1年前の騒動を京子は思いだしていた。

「桜井の妻でございます」

アルマーニで身を固めたその人は、そう言った。

「あなたが京子さん?単刀直入にお話させていただきますけれど、桜井とは別れてください。子供もいることですし。ここに少しあります。これで勘弁してくださいね 。もしも別れていただけないようでしたら、こちらにも考えがあります。その時は裁判をしてでも、別れていただきます。費用はすべてあなた持ちという結末になりかねませんよ。あ、そうだわ。慰謝料も請求いたしますから、そのつもりでね」

「これは受け取れません。桜井さんとは別れたいと思っています。何度もそうお願いしているのですが、桜井さんが別れてくださらなくて、私自身困っていました。桜井さんにそうお伝えください」

言いたいことを言った後、桜井の妻と言う女性は帰っていった。

(この人は私の魂に値段をつけるつもりかしら・・・)

母は始終、申し訳ございません。必ず別れさせますから。二度と、会わないようにきつく叱りますから。と、ただ頭を下げて、相手の顔を見ようとはしなかった。

「お母さん、お母さんには辛い思いをさせて悪かったと思っているの。でも私、桜井さんのことが本当に好きで・・・」

「何を言っているの。今日で別れなさい。いいわね。お母さんは絶対にそんな関係は認めませんよ」

ああしろ、こうしろ、あれはしてはいけません。そんなことばかり言われて育った。

京子は一ヶ月後、家を出た。地元から2時間ほど行った街で、新たに人生をやり直そうと、一人暮らしを始めた。
アパートは新築で、綺麗だった。ベランダに買ったばかりのハーブの寄せ植えを置いた。京子の部屋は4階だった。風が心地良かった。