夢の中の人【前編】

朝方、霧が出ていた。青い霧だった。短い夏をエンジョイするかのように鳥のさえずりが聞こえた。
その人が立っていた。僕の夢に出てくるその人の名前をなぜか僕は知っていた。何かわからないけれど、強烈に僕を惹きつけた。

僕の隣には佳代子が寝息を立てていた。安らかなその音は佳代子そのものだと思う。穏やかで気立てのいい女だ。一緒に暮らし始めて2年経った。僕は佳代子を愛していた。でも結婚するつもりはなかった。佳代子は耳鼻科で看護士をしている。何度かその耳鼻科に通ううちに、佳代子と顔見知りになった。ある日、たまたま入った居酒屋に佳代子がいて、意気投合。その時、電話番号とメールアドレスを交換した。その夜、佳代子からメールをもらった。

「お疲れさまでした。今日はありがとうございました。あんなに楽しいお酒は久しぶりです。お休みなさい」

「こちらこそありがとうございました。僕もとても楽しかったです。お疲れさまでした。お休みなさい」

佳代子は手足が長く、垢ぬけており、顔立ちも整っていた。居酒屋でも、男たちがチラチラ佳代子を見ていた。わざわざ僕にメールをしてこなくても、いくらでもいただろう。なぜ僕にメールをくれたのか、ちょっと腑に落ちない、そんな気分だった。

それから、3日後に、また佳代子からメールが来た。

「こんばんは。今日も一日、お疲れさまです。突然でごめんなさい。この前お友達から、映画のチケットを2枚もらったのですが、もし良かったらご一緒していただけませんか?他に頼める人がいなくて。星野さんにお願いするのも恐縮なのですが、もしよかったら今度の土曜日、空いていませんか?」

特に用事もなかったし、このところ仕事の疲れが溜まっていたので、綺麗な女の子と一緒に映画を見にいくなんて素敵じゃないか。正直うれしかった。

「お疲れさまです。どうもありがとう。僕でよかったら、お伴しますよ。映画の後は、食事でもどうですか?その時は、僕におごらせてくださいね」

「こちらからお誘いしたのに、何だかわるいのですけど、せっかくなので、お言葉に甘えさせてください。ありがとうございます。今度の土曜日、2時30分に、この前の居酒屋の前でお待ちしています。きっと来てくださいね?」

デートなんて5年ぶりだった。その間、誰かを誘ったことはなかった。とにかく独りになりたかった。佳代子の自然な誘いについつい乗ってしまった。でも悪い気はしない。むしろ温かなものを感じた。

仕事、仕事で、毎日それだけで一日が過ぎ、一週間が過ぎ・・・この繰り返しの味気ない日々だった。仕事にこれといった不満はなかったが、遣り甲斐もなかった。親父の後を継いで、中古車販売の会社を経営している。子供の頃から車は大好きだった。でも親父の後だけは継ぎたくはなかった。
親父と僕は水と油のように相性が悪かった。何かにつけ衝突し、中学、高校と十代の頃はほとんど口も聞かなかった。

その親父がある日、心臓発作で倒れた。病院に駆けつけた時はまだ意識があった。

「ゆづるはよくがんばっているなあ」

親父の最後の言葉だった。涙が溢れて止まらなかった。もしも親父が、会社を継いでほしいと言ったら、僕は多分継がなかっただろう。でも親父は最後、真っすぐ僕を見てくれた。それだけで十分だった。この人のために何かしたいと思った。
あれから7年、最初の1年間は無我夢中で働いた。毎日が残業だった。忙しかったが充実していたし、恋人もいた。

恋人とは、忙しさのあまり会えない日々が続いた。最後に会った日から、2ヶ月ほど経ったある日、

「お世話になりました。他に好きな人ができたの。さよなら」

それだけ書かれた短いメールをもらった。僕はなんて書いたのかよく思いだせない。どこかでこうなるだろうと予想はしていたが、やはりショックだった。本当に好きだった。結婚したいと初めて思った女性だった。あんな風に心変わりできることが、僕には信じられなかった。
考えてみれば、親父が死んでからといもの、ほとんど会えずにいた。それでも彼女は毎日メールをくれた。朝はおはようと必ずメールをくれたし、夜は、お疲れさま、お休みなさい、とメールをくれた。
僕のほうは会社を継いでからというもの2、3ヶ月に一度、メールをすれば良いほうだった。
「当たり前だよ。もっと大事にしてあげたら良かったんだよ。あんなにおまえのこと想っていたのに・・・。彼女の気持ち、考えたことあったのか?」会う友達、みんなにそう言われた。

土曜日、2時30分、佳代子はすでに来ていた。グリーンのサマードレスに、赤いウェッジソールのストラップサンダルが映えて、とても綺麗でキラキラしていた。

「早かったね。待たせてしまったのかな」

「ちょうど今、来たところよ」佳代子の額の生え際にうっすら汗が光っていた。

それから僕らは映画を見て、食事に行った。食事は美味しいと評判のフレンチレストランを予約していた。それぞれのテーブルにはキャンドルが灯されていて、豪華で落ち着いた雰囲気を醸し出していた。切れ長の佳代子の目が優しく僕を見ていた。

「すごく美味しいです。今日は本当にありがとう。映画に付き合ってもらったうえに、こんなに素敵なレストランでお食事までいただいて」

それから半年後、佳代子は僕のマンションに引っ越してきた。彼女は申し分がないほどよくできた女性だった。