夕闇の月【後編】

「敦子が家にいるから、安心して家を空けられるわ」

両親はそう言って、二人で2泊から4泊の旅行に行った。実家には12歳になる雌猫がいた。敦子にとてもなついていて、座っているとどこからともなくやってきて、膝の上に乗った。なでると気持ちよさそうで、その穏やかな表情に敦子の気持ちもほころんだ。

早朝と夕闇の頃、敦子はカメラを持って散歩に出た。それから撮った写真をブログに載せた。洋介は敦子のブログに、最初にコメントを書いてくれたゲストだった。
敦子は洋介と言葉を交わしていると、不思議な安らぎを覚えた。深く抱擁されているような、心の温もりを感じた。好きになるのに時間はかからなかった。

「今度、コーヒーでもどうですか?敦子さんさえよければ、本当は食事に誘いたいんだけれども。美味しいお店知ってるんですよ。それとも気楽な感じで居酒屋のほうがいいのかな?今度の土曜日はどうですか?」

「両親が旅行に行っていて、家で一人なんです。誘っていただいて嬉しいです」

「僕たちタイミングもピッタリですね」

そんな風に素直に喜びを表現してくれる洋介に、敦子は信頼を覚えた。洋介は来るもの拒まずで、誰とでも話をしたが、とてもプライベートな人だった。内面世界を大切にしている、何か面白いことを考えている、彼からはなにかしら伝わってくるものがあり、敦子の心のひだを震わせた。

食事はとても美味しかった。洋介のセンスの良さと優しさを、じんわりと人柄を感じた。食事の後、二人は夜の街を散歩しながら話した。秋の街はネオンで彩られ、肌寒さを忘れるほど、会話は弾んだ。一瞬、風が吹いて、アッと気を取られている瞬間、敦子の手は洋介の手にすっぽり包まれていた。

「お酒に付き合ってくれませんか?」

「ええ、喜んで」

洋介が連れていってくれたお店はジャズバーだった。オーナーの音に対するこだわりが行き届いているシックな空間で、照明はやわらかく落としてあり、グラスが夜の明かりでキラキラ綺麗だった。そしてジャズのレコードが流れていた。敦子はうっとりと聴き入った。

「敦子さん、ここいいでしょう?」

「ほんとに素敵ですね」

「あれ、洋介さん、今日は一人じゃないんですね。あ、初めまして。大久保と言います。洋介さんがお連れさんと一緒だなんて初めてですよ」

「宮脇敦子さん。僕の彼女です。なんて言ったら怒られちゃうかな。一度、宮脇さんとこのお店で飲みたいって、前から思ってたんです」

「それはうれしいですね。一度なんて言わずに、宮脇さんとご一緒に、いつでも来てくださいよ」

「はい。ありがとうございます。ぜひ・・・」

アン・バートンのハスキーで艶のある落ち着いた歌声が、しっとりと響いている。

「敦子さん、僕たちが出会った日のことを覚えていますか?僕はよく覚えています・・・。最初からあなたに惹かれていました」

洋介は真っすぐ敦子を見ていた。敦子の頬は赤く染まり、体は息苦しいほど熱かった。心のなかを洋介に見透かされてしまったようで、恥ずかしくなり瞳を伏せた。直ぐには言葉が出てこなかった。
カクテルで喉を潤した。

「外に出ませんか?」

「はい」

秋の街路樹は鮮やかで、夜の街をノスタルジアに染めていた。
「敦子さん、この2年間僕たちはほぼ毎日、言葉を交わしてきました。交流があった・・・。僕はこれまで誰かと、こんなに親密になったことはありません。あなたといると、安心して僕は僕でいられる。あなたも同じでは?僕はそう感じていますよ。敦子さん、これからの生涯を伴にしていただけませんか?」

いつかこの日が来ることは感じていた。でもいつかはわからなかった。時折、現世では叶わないのかもしれないと思うことで、諦めようともした。

敦子は頷いた。

洋介が敦子を抱きしめた。洋介の胸は温かかった。

「ずっと好きでした」

「私も・・・」

二人の鼓動は響き合い、澄んだ夜空には月が輝いていた。

夕闇の月【前編】

地元での暮らしは非常に苦手で苦痛だった。どこに行っても知り合いに会う。高校卒業と同時に地元を離れた。最後に地元に帰ってきたのは30歳の時だった。3年前、離婚し、実家へ帰ってきた。

「少しゆっくりしなさい。それから今後のことを考えたら?」

疲れ切り、何も考えることができなかった敦子にとって、両親の言葉は身に染みた。敦子は38歳になっていた。昔から比べたら大分ふくよかになっていたが、知り合いに会う度、すぐにわかってしまうらしく

「全然変わらないからすぐにわかったわよ。でも少しふっくらしたわね。ねえ、今度ランチでも行かない?」と人の良い地元の友達はこんな風に誘ってくれた。

「電話番号教えて?今度会わない?」と訊かれても、

「ごめんね、今急いでいるの。またね」と言って交わし、誰とも電話番号の交換をしなかった。いつしか、敦子は孤立している、と噂が立ち、誰も敦子の電話番号を訊かなくなった。
会えば決まって、今、なぜ実家にいるのか、という話になり、離婚の話になるだろう。彼女たちは敦子に気を使って、あるいは実際夫婦仲があまりよくなくて、夫の愚痴をこぼし始めるだろう。

(結婚なんてこんなものよ。私も本当は別れたいけれど、子供がいるでしょう。だから今は我慢しているの。そのうち見てなさい、って心の中じゃ思っているのよ)

なんて話になるだろう。でもそんなことを言えるうちは、まだ夫婦仲はうまくいっている。本当にイヤになると、やがてそれは無関心に変わるのだ。そうなるともう見込みはない。一緒にいて、いないも同然。家庭内別居である。

彼女たちの幸福な不満に付き合っていられるほど、気持ちに余裕はなかった。夫はある日、家を出た。敦子は夫を愛していたし、夫も敦子を愛していた。でも夫は家を出たのだ。そして突然、離婚届けが送られてきた。

「すまない。別れてくれ。僕は君の期待には応えられない。何もかも疲れてしまったんだ。何も訊かずこのまま別れてほしい。家も土地も君の好きにしていい。今までありがとう。身体には気をつけて。僕のことは忘れて、新しい人生を歩んでください」

と手紙が入っていた。
敦子は晩ご飯の後、一人で散歩をするのが好きだった。実家に帰ってきてから始めたこの散歩。夕闇の空を見上げると白い月が浮かんでいる。自然と笑みがこぼれる。この時間が一日のなかで最もリラックスできたし、ホッとした。帰る頃には、月は明るさを増し夜空に輝き、道を照らしてくれる。
月の出ない日は、かくれんぼをしている子供のような心持になったりした。
孤独だった。心底孤独だった。薄暗い闇に浮かぶ赤い花が目に染みた。一人っ子だったので、話せる兄弟はいなかった。友達もいなかった。

地元に帰ってきて、3年経つ。最初の1年間は家事を中心に一日が回っていた。土地と家は処分し、半分は両親にプレゼントした。半分はそっくりそのまま貯金した。お金には困っていなかったが、このまま家にばかりいると、外に出るのが恐くなり、立ち上がれなくなりそうで、地元から車で40分ほどの街の設計事務所に就職した。そこで事務の仕事をしている。
職場は人に恵まれ、働きやすかったが、仕事とプライベートは完全に切り離していた。職場へは車で通っていた。遠いということもあり、飲みに誘われて断っても、嫌な顔をされることもなかった。

敦子は昔から詩を作っていた。口下手だったこともあり、話すよりは書くことで気持ちを表現した。写真を撮るのも好きだった。離婚後、気持ちを解放させる場所がほしくて、写真と詩のブログを始めた。それは敦子のひそやかな秘密であり、楽しみだった。ブログでの遣り取りだけが、唯一の他者との交流だった。

「この月の写真、今さっき撮りました。あなたに最初に見ていただきたいと思って、載せました」

洋介は敦子のブログの常連だった。毎日来てくれて、更新するたびコメントを残してくれた。

「あなたの写真を見ていると、僕もそこにいるような気がしてくるんですよね。不思議なんだけれど」

洋介の言葉は敦子の感覚を一つに集中さて、心に深く染み込んだ。

夢の中の人【後編】

交差点を過ぎたところだった。あれ?最初、目を疑った。夢のなかのあの人がいる。紺のポルカドットの白地のブラウスに、ベージュ色のセミタイトのスカートを着ていた。夢のなかとは時代も服装も違っていた。でも間違いなく彼女だ。僕は見失わないように後を追った。すると彼女は振り向いて、僕に会釈した。
僕は向こう側にいる彼女目差して、迷わず道を渡った。

「あの、すみません。どこかでお会いしたことがあるように思ったものですから・・・」

息を切らせながらも、僕は必至だった。夢のなかで僕は彼女と一緒にいた。彼女はバラの香りがした。僕たちは互いを知っていた。
彼女の澄んだ目が真っすぐ僕を見ていた。心の奥底まで浸透するような瞳で。

「やっと、会いに来てくれたのね」

彼女がそう言った。虹色のエネルギーが僕を貫いた。

目を覚ますと、木漏れ日が降り注いでいた。風の音が弾け合って、クリスタルな音を奏でていた。僕たちは森のなかにいた。

「おかえりなさい。あなたを待っていました」

「ここはどこですか?」

「西暦3415年の地球です。私たち人間はより高い次元の民となり、衣食住の束縛から解放されて、光の人となりました。今でもあなたが食事を取りたければ、取ることもできます。ただ私たちの体は食物なしでも生存できるのです。病も老いも死もありません。真実の愛と平和の星へと地球は進化したのです」

「どうして僕はここにいるのですか?」

「ここがあなたの故郷だからです。家だからです」

僕は頭を振って、目を凝らして辺りを見渡した。巨大な木が間隔を保って生えており、緑の苔の絨毯が地上を覆っていた。さまざまな花が咲き乱れ、シダ植物が木漏れ日の差し込む場所で生えていた。
生まれてこのかた、こんなにも美しく、平和に満ちたところを見たことがない。ここは天国だろうかと思ったりもした。

「目覚めたいですか?」

「あなたと一緒にいられるのなら、目覚めたいです」

「行きましょう」

彼女と手を繋いだ途端、湖が現れた。僕たちが湖に入ろうとすると、水かさが浅くなり、小径のようなステップストーンが現れた。僕たちはその石の上を歩いた。歩き始めると、辺りの景色はまるでパノラマのスクリーンで見る映画のようになり、これまでの地球の歴史を見ながら、僕たちは歩いた。歩きながら僕は、人間がこれまでおさめてきた、ありとあらゆる学問を学んだ。

彼女が僕を見て微笑んだ。そして僕たちは一緒に笑った。子宮にいた頃はこんな風だったのかしら、と思うほど、満ちたりた愛と安らぎに包まれていた。五感は澄み渡り、至上の至福が足元から湧いてきて、僕たちは地上に浮いた。

「もうすぐですよ。これから光のシャワーを抜けます。でも一つだけ、お願いがあります。絶対に目は開けないでください。無事にここを通過したら、私たちは祝福を受けて、完全な人となります」

光のシャワーは神々しく眩しくて、とても目を開けられるような状態ではなかった。僕は彼女の言った祝福について考えていた。その時、不意に彼女の手が僕の手からすり抜けた。僕は考える間もなく、目を開けていた・・・。

朝の光がカーテンから差し込み、僕は太陽が眩しくて目が覚めた。隣にはいつものように穏やかに、佳代子が眠っていた。

仕事が早目に終わり、僕は目的地もなく歩いていた。いつの間にか僕はあの交差点へ来ていた。そして同じ場所で彼女を見かけた。僕は無我夢中で彼女を追いかけた。彼女はゆっくりと歩いていたが、距離が縮むことはなかった。そして彼女は振り向いて、僕に手を振った。彼女の目からスーッと幾つもの涙が流れ落ち、彼女とともに消えていった。