夕闇の月【前編】

地元での暮らしは非常に苦手で苦痛だった。どこに行っても知り合いに会う。高校卒業と同時に地元を離れた。最後に地元に帰ってきたのは30歳の時だった。3年前、離婚し、実家へ帰ってきた。

「少しゆっくりしなさい。それから今後のことを考えたら?」

疲れ切り、何も考えることができなかった敦子にとって、両親の言葉は身に染みた。敦子は38歳になっていた。昔から比べたら大分ふくよかになっていたが、知り合いに会う度、すぐにわかってしまうらしく

「全然変わらないからすぐにわかったわよ。でも少しふっくらしたわね。ねえ、今度ランチでも行かない?」と人の良い地元の友達はこんな風に誘ってくれた。

「電話番号教えて?今度会わない?」と訊かれても、

「ごめんね、今急いでいるの。またね」と言って交わし、誰とも電話番号の交換をしなかった。いつしか、敦子は孤立している、と噂が立ち、誰も敦子の電話番号を訊かなくなった。
会えば決まって、今、なぜ実家にいるのか、という話になり、離婚の話になるだろう。彼女たちは敦子に気を使って、あるいは実際夫婦仲があまりよくなくて、夫の愚痴をこぼし始めるだろう。

(結婚なんてこんなものよ。私も本当は別れたいけれど、子供がいるでしょう。だから今は我慢しているの。そのうち見てなさい、って心の中じゃ思っているのよ)

なんて話になるだろう。でもそんなことを言えるうちは、まだ夫婦仲はうまくいっている。本当にイヤになると、やがてそれは無関心に変わるのだ。そうなるともう見込みはない。一緒にいて、いないも同然。家庭内別居である。

彼女たちの幸福な不満に付き合っていられるほど、気持ちに余裕はなかった。夫はある日、家を出た。敦子は夫を愛していたし、夫も敦子を愛していた。でも夫は家を出たのだ。そして突然、離婚届けが送られてきた。

「すまない。別れてくれ。僕は君の期待には応えられない。何もかも疲れてしまったんだ。何も訊かずこのまま別れてほしい。家も土地も君の好きにしていい。今までありがとう。身体には気をつけて。僕のことは忘れて、新しい人生を歩んでください」

と手紙が入っていた。
敦子は晩ご飯の後、一人で散歩をするのが好きだった。実家に帰ってきてから始めたこの散歩。夕闇の空を見上げると白い月が浮かんでいる。自然と笑みがこぼれる。この時間が一日のなかで最もリラックスできたし、ホッとした。帰る頃には、月は明るさを増し夜空に輝き、道を照らしてくれる。
月の出ない日は、かくれんぼをしている子供のような心持になったりした。
孤独だった。心底孤独だった。薄暗い闇に浮かぶ赤い花が目に染みた。一人っ子だったので、話せる兄弟はいなかった。友達もいなかった。

地元に帰ってきて、3年経つ。最初の1年間は家事を中心に一日が回っていた。土地と家は処分し、半分は両親にプレゼントした。半分はそっくりそのまま貯金した。お金には困っていなかったが、このまま家にばかりいると、外に出るのが恐くなり、立ち上がれなくなりそうで、地元から車で40分ほどの街の設計事務所に就職した。そこで事務の仕事をしている。
職場は人に恵まれ、働きやすかったが、仕事とプライベートは完全に切り離していた。職場へは車で通っていた。遠いということもあり、飲みに誘われて断っても、嫌な顔をされることもなかった。

敦子は昔から詩を作っていた。口下手だったこともあり、話すよりは書くことで気持ちを表現した。写真を撮るのも好きだった。離婚後、気持ちを解放させる場所がほしくて、写真と詩のブログを始めた。それは敦子のひそやかな秘密であり、楽しみだった。ブログでの遣り取りだけが、唯一の他者との交流だった。

「この月の写真、今さっき撮りました。あなたに最初に見ていただきたいと思って、載せました」

洋介は敦子のブログの常連だった。毎日来てくれて、更新するたびコメントを残してくれた。

「あなたの写真を見ていると、僕もそこにいるような気がしてくるんですよね。不思議なんだけれど」

洋介の言葉は敦子の感覚を一つに集中さて、心に深く染み込んだ。